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「テープ」のこと


もうだいぶ前のことになってしまいますが、どうやらこのブログは日付をさかのぼって投稿できるようなので、「静大フュチャーセンター」にお邪魔させてもらったときのことを書きます。

実はですね、私は「レトロフューチャーセンター」なんてものの管理人をやってる割に、ちゃんとしたフューチャーセンターに行ったことがなかったんですよ。

そんな素人同然の状態で、わけもわからず4月14日に、レトロフューチャーセンターのオープニングとかやってみたら、そこに遠方から参加してくださった、心優しい静岡大学の学生さんが、このフューチャーセッションに誘ってくださったのです。

で、行ってみたら、このセッションは吉田町の本橋テープの社長さんがアジェンダ(セッションのお題)を持ってきてまして、その社長さんが実は中学校の同級生だったことが静岡大学構内会って初めてわかって、ええそれはもう大変びっくりしました。

で、肝心のアジェンダですが、「10年後、テープという言葉を聞いて、『どっち?』、と10人中9人になってました。なぜ?」というものでした。少し解説しますと、本橋テープさんが作っている「テープ」は、細巾織物のことなのですが、現状、「テープ」と聞いたら「セロハンテープ」とか「ガムテープ」とかそういうのを想像しますよね。

これが、本橋テープの社長さんは、なんとしても「テープ」=「細巾織物」という認識を世の大勢の人に持ってもらいたいなぁと思ってるわけでして、これについていろいろフューチャーセッションで考えるわけですね。

このセッション自体、大変楽しかったのですが、私はそのセッション中に社長さんが言っていた、「なんで吉田町に、細巾織物が産業として根付いたのか、細巾織物はもともと浜松のほうで盛んなもので、あとうなぎの養殖も盛んだったが、吉田町もうなぎの養殖が盛んだった。これは何か関係があるのだろうか?」という疑問が心に残ったのですね。

なので調べました。調べたといっても、実家の父に聞いたり図書館の郷土史の本をあたってみたりとかその程度ですが、でもなんとなくですが答え的な仮説をたてることができました。

仮説の結論から言うと、細巾織物とうなぎが、浜松と吉田町の両方で盛んだったのには関連があります。その関連とは、「吉田町の海に近いほうの土地は農業に向いてなくて長いこと使い道がなかった」という、地理的条件です。

まず、大正~昭和初期にかけて、浜松のほうで起こった産業は、150号線を伝って東側に伝播してきましたが、このとき連続して伝わってきたのではなく、飛び地で伝わってきます。具体的には、舞阪をスタートに、福田、浜岡、相良、吉田と伝わってきます。

ここで、相良からどうして榛原を飛び越えて吉田に伝播するのかというと、榛原は農業に向いてる土地が多くて、他のことに使える土地が少なかったのですね。一方吉田は、150号の南側は長いこと沼地のままで、農業ができなかったようです(吉田田んぼが150号の北側に広がってますが、あそこより南では、昔は米作が難しかったわけですね)

でも、繊維業の工場はとにかく沼地でも埋め立てればできます。うなぎの養殖も、沼地を養殖池にするのは比較的容易です。なので浜松発の産業のおかげで吉田はようやく沼地を有効活用できたのですね。

また、調べてみると、福田、浜岡、相良も、よそからの産業が根付いた箇所はわりと同じような地理的条件がありました。あと、端的に言ってそういう「農業に向いていない土地」は他の土地より貧乏だったようで、工員や養殖業の人手を安く雇えたようですね。

これはわりとよくありそうな仮説ではありますが、でも示唆に富んでると思います。現状で、たとえばお金を稼ぐのに向いている土地と向いていない土地があったとして、それは環境が変わらなければそのままですが、なにかその環境が変化したときに、後者のほうがすばやくその新しい環境に適応できる可能性があるわけです。

あとなんかですね、吉田町出身で、現在は勝間田に暮らしている身として、この仮説はとても肌感覚でしっくりきたんですよ。隣町同士なのに、なぜこんなに雰囲気とか文化に違いがあるように思えるのかなぁと長年不思議に思っていましたが、隣町であっても地理的条件が違えばそれで歴史も変わりますし、歴史が違えば文化も違ってくるわけですね。なるほどねぇ。

・・・・・・というわけで、静大フューチャーセンターでのセッションは、セッション後も私にいろいろと考える機会を与えてくださる、大変すばらしいセッションでした。遠いので毎回は無理ですが、また都合が合うときに行きたいと思います。

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